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祖先も鶴ヶ城のお堀付近で亡くなり、遺体はずっと放置でした。何年も恨んでも仕方ない。これが歴史なんですよ。今の会津人はしっかり受け止めてますよ。両軍必死で生きた証だと会津人として思います。 ならぬことはならぬものです。義に生きた証があることを誇りに思います。こういった歴史があるからこそ会津に来た人にまた来たい素晴らしい土地であることを理解してもらってると思います。
語り継がれる地元の方の話は時に残酷であり教訓であり未来への指針だと感じます。
泣かせるね、貴方の言う通りですね。その心意義は持ち続けたいものですね。
吉田伊惣治,左喜の夫婦の行いは、白虎隊にもまして、人間として崇高な行いだと感心する。生き様は知られる事も無く、しかし深い人間愛に満ちていて心が満たされる。
放っては置けなかったんですね。恥ずかしながら吉田夫妻の話は僕も最近知りました😅
15年ほど前に一度だけこの地を訪れました。自刃の地から会津城を望み、私の足元で無邪気にはしゃぐ2才の息子を抱きしめながら、散って果てた若い命たちに、母の気持ちで思いを馳せました。涙が止まりませんでした。今息子は17才。白虎隊の歳になりました。弾けるような目映い青春を謳歌している息子です。産まれた時代が違っただけ、同じ日本に生まれながら、白虎隊や後の太平洋戦争など、息子と同じ本来なら一番輝ける青春を謳歌出来たはずの若い命が、夢半ばで無念に散って逝ったと思うと本当に胸が張り裂ける思いです。そしてそうまでしても我が国を守ろうとして下さった聖霊方には感謝と尊敬しかありません。この聖霊方に私たちが恩をお返し出来るとしたら、やはり平和、泰平の世を築くことしかないと思います。奇麗事かも知れませんが、若い命が戦いで散って逝くような世界は苦し過ぎます。
たなしい様、同様・私の孫は20歳、白虎隊の、魂を 教えて来ました。真剣に 耳をかし、両手を
膝のうえに置き瞬きもせず聴き入りました。今の 僕は
何に 命を 捧げる?と、🇯🇵先人が、命を引き換えにいまの国🇯🇵があるんだね。大粒の涙💧
マナーのないガキはいらないから
まさにその通りです私も同じ福島生まれで、あいずだましにまけず、亡くなった人を裏切らず頑張ります、因みに私は、白虎隊のファンでビデオ買いました
とても貴重な内容でした。損得ではなく義。先人の生き様、教え、誇りに思います。
ご視聴ありがとうございます。自分がその場にいたらどうしていただろう?なんて考えてしまいました。
とても貴重な先人の行いを世に出す事は素晴らしい行いです。特に東北の人達の素朴で義理固い一途な人柄が好きです。
損得しか考えない奴が多すぎます
会津は良い処が沢山あり僕は好きで毎月行ってますもう20年以上続いてますが、まだまだ知らない会津の事がありますね、主さんのチャンネルで勉強させて頂いております、有難う御座いました。
ご視聴ありがとうございます😊会津が好きと言っていただいて嬉しいです。僕も会津に生まれ育ってますが知らない事だらけです💦これからももっと勉強して色々な会津をお届けできればと思ってます❗️またよろしくお願いします。
ここへは何度か行きました。ちょうど剣舞をやっていて、少年隊に思いをはせました。会津藩士の忠義の心が切なくも悲しさを誘いました。
先日飯盛山へ行った時も剣舞やってました。こうして後世に伝える活動はいい事ですね😊
何とも言えない悲しい事でしたね。遺体を掘り返してまで野ざらしにした!と言う話を聞き、日本人のする事とは信じられません。
ご視聴ありがとうございます😊当時の考え方が今とは違うとはいえとても悲しい出来事ですね。
検証しないで勝手に埋めるのは、現在でも違法ですから当たり前の事ですよ。会津藩降伏後、会津世直し一揆で混乱していたし、会津藩士の処遇も次の戦の作戦・兵站と忙しい中、野ざらしにした!は言いすぎです。実際、降伏後の10日経って埋葬命令が出てますから。
@@tamenobukuji7732 貴方の論も一理ありますね、何人埋葬したのかも確認する必要もあったのだろうし。
掘り返してまで野ざらしにされたというのはそんな記録はありませんけどね。あくまで言い伝えでしかないので。会津藩は結構いい加減な情報が多いですよ。
@@白土保代 ほら、あなたが現に根拠の無い情報を、流してるじゃないですか?「結局薩摩長州が,新政府を立ち上げるために、有ること無いことを流して、白虎隊や二本松少年隊員達の愛国心を踏みにじったのです。」こんな根拠の無い物、どこの情報ですか?あなたが思ってるように会津藩士が立派であれば、会津世直し一揆なんか起こらないんですよね。会津藩士による蛮行の記録でも見て、もうちょっと謙虚になる事をお勧めしますよ。
私の父方の曾祖父(高祖父か)が江戸の幕軍残余と共に北上会津の戦いに参加した時仲間とはぐれ白虎隊の自刃直後の現場に遭遇したと父から伝え聞いてます其の有様に衝撃を受け今で言うPTSDのようになってそのまま函館戦争に、何とか家まで帰還したものの戦地での病から1月と立たずに亡くなったと。その間薩長奴等酷え事しやがって…あんな若え奴等が…と繰り返していたと聞いてます。それと父は生前曾祖父の此のエピソードを話してくれた後…「会津の涙はもう流さしちゃいけねぇンだ。」と良く言っていましたm(_ _)m
ご視聴&コメントありがとうございます。実際にその場にいた方のお話は大変貴重で伝え聞いていたと言うことに驚いています。これからも史実を伝えていってほしいと思います。
@@aizuchannel 様、ヒー爺ちゃんは江川太郎左衛門配下で砲台場築造にもあたりました。父は、ジーさんは幕府軍を見捨てられなかったンだろう。と言って居ました。母方の曾祖父は新撰組に居て箱館戦争で戦死したと聞かされて居ます。もしかしたら会津の戦いにも参加していたかもしれませんね。m(_ _)m
白虎隊の人たちが最初に埋められた場所とかたもりこうの謹慎させられた場所が同じというのが悲しいですね。
時代は本当に残酷だと感じます。自分が見送った若い白虎隊隊士達が眠る場所に謹慎させさらるという。
この頃は義侠心のある方が多かったですよね。モラルが高いというか、侍に限らないと思います。会津の生き残りのご婦人の手記読みました。当時の鶴ヶ城の大奥でも、白虎隊かわいそう、と思われていたらしく、総髪の白虎隊ルックの若い子をみたら(その人は白虎隊じゃないのに)お女中がこっそり上等のお菓子くれたそうです。私は違う、と断っても押しつけられるように渡されたと書かれてました。かなり美味しかったそうです。
尺八の音色が悲しみ、哀愁を誘う。本当に良い動画ですね。
ご視聴ありがとうございました😊
ご返信ありがとうございます。🌠✨😉日本の為、人生を賭けた、心優しき戦士のご冥福お祈りします。🌠✨🙇
こうゆう動画を見て会津を訪れると、また違った思いで見る事が出来ますね。
ご視聴ありがとうございます😊
私も飯盛山に行きました。厳粛な感じが漂っていました。残った会津藩士は北海道に渡って屯田兵となり、西南戦争と日露戦争で武勇を立てました。見事に白虎隊の無念を晴らしました。
誰が白虎隊の無念を晴らしたって書き残してんだ?勝手に作るな。そもそも白虎隊は殆どが籠城してただろ。戦地に出た部隊も隊長とはぐれた20人は逃げてただけじゃないか。
@@hajimenoda 白虎隊士中二番隊の話ですよ。飯沼しか生き残ってませんが、当時10歳くらいの柴五郎大将(義和団事件で活躍して日英同盟の基礎となる偉人です)は西南戦争の結果は当然の帰結であると書き残してますよ。会津藩家老だった山川や佐川も西南戦争で戦ってますし。見事に白虎隊を含む会津の無念を晴らしたと言えると思います。まあ、会津藩士は北海道に行った一部もいますが、大多数は斗南藩でさらに苦しんだ上で、2万の半分以上は故郷会津に帰った。
その屯田兵が西南戦争で鬼人の如く戦ったのですが、指揮官たる薩摩藩出身者が、故郷に刃を向ける訳にも行かず消極的な行動と、戦功への評価が余りにも不公平で抗議して自決した屯田兵士官がいて伝説となっています。
本当に魂が永遠なら時代の移り変わりを彼らはどんな気持ちで見ているのだろう。静かで深い動画でした。うPありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました😊彼らが今の日本を見たらどう思うんでしょうね❓彼らに恥じない様に生きたいものです。
懐かしい。ここお寺のお子さんと幼稚園が一緒でした。一度境内で遊んだ記憶があります。こんなすごいところだと知ったのはかなり後です。
そうなんですね😊僕もここが白虎隊の仮埋葬地だとは最近知りました。
他でも書きました、武士道を貫いた白虎隊の少年たち野盗山賊の振舞いの西郷一味、気分は西郷隆盛の自称薩摩隼人氏が自分は如何に素晴らしい男ぶりで鹿児島は日本一の男の産地であると地平線からの日の出見ながら育った屯田兵の孫に吹いてるの見てから西郷隆盛益々嫌いになるなった。吹かれた道産子は困った顔でニコニコしていたww粗末な小屋で暮らし命削りながら零下30度の冬や大きなヒグマと闘いながら泥炭の湿地に緑の大地築いて支庁によっては食料自給率千三百%越えるようにしてくれたじーちゃんばーちゃんの孫相手に何威張ってるんだか。
本当にあなたの言われる通りです。私も薩長が嫌いです。斗南藩をつくり、それも失くし、屯田兵として北海道開墾して,私達には,想像すら出来ない位苦労して,今の東北地方や北海道の礎を築いて下さったのです。
飯盛山から鶴ヶ城の方角を見晴らすと遠くに城の全景が見える。もし彼らが逃げた場所が山中ではなかったら、火事を発見することはなく、自刃はなかったかもしれない。そう思うと堪らなく辛い気持ちになる。合掌。
遠く煙に巻かれる鶴ケ城そして火に包まれる城下。それを見た隊士達はどんな気持ちだったのか。足手纏いになる、敵に捕まる、藩主に申し訳が立たないいろんな思いがあったのでしょうね。
以前、訪ねた時 偶然住職の奥様にお会いして親切に本堂の中まで案内して頂いたんです。嬉しい思い出がある妙国寺、アップ有難うございます。「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。ならぬことはならぬものです」会津武士道を貫き、若い命を散らした白虎隊。左喜さんの事、ご遺体が掘り返された事初めて知りました。容保公謹慎のお寺と白虎隊、尺八の音色がもの悲しく胸に迫ります。
ご視聴ありがとうございます😊まつかたさんきっかけで初めて訪れました❗️僕も撮影の許可を頂くのに奥様とお話しさせていただきました。とても親切な方で笑顔の素敵な奥様でしたね😄白虎隊や会津藩士、戊辰戦争に関する場所は他にもたくさんあるのでまて撮影してきます👍
勝てば官軍負ければ賊軍、薩摩長州の戦が人を人と思わずのところが会ったのと思われます。今でも会津の人間から思えば悔しさと悲しさを覚えます。でもそれから今がある。
当時があって今があるんですよね。
私の母方の先祖が会津藩士でした。会津藩士夫妻は、 幼い我が娘を海側の庄屋に預け、「必ず必ず、戻って来る」と言い懐剣と金子を渡し、鶴ケ城に帰り、2度と娘に今生では、再開が叶いませんでした😢長じて、この庄屋の跡取り息子と結婚しました。 私は、東京にいた高校生の頃、学校で、この白虎隊の墓に伺いました。(野口英世の生家にも)この時、大東亜戦争後に、進駐軍が東北の福島会津の奥までやって来て、白虎隊慰霊碑石板を削った。神風特攻隊や日本兵士の根底には、武士道精神があり、 徳川幕府に対しての忠誠心イコール武士道であるとして、米軍は分析し、忌み嫌ったと、バスガイドさんが悲しげに語っていました!!印象的なお話しと、切ないお声が数十年経た今も、昨日の事の様に思い出され、私の魂の聖域に内在します。 例え、慰霊碑は、蛮行により文字は、削られても、白虎隊、会津藩士やそのご家族、仕えていた方々、松平容保さまたちのお気持ちは、後世の私達は、少しですが分かります。容保様は、徳川家の縁故であり、渋々、徳川を指示しました。御心は、天皇陛下を深く尊く慕い、敬っていました。終生、帝(天皇様)から使わされたお手紙を大事にされ、竹筒に入れ、身に付けていました。最後は、日光東照宮宮司となられ、貴族院議員の誘いや高位地位を断っていました。 御霊安かれと心から祈ります。合掌
自分も福島の血が流れているので感銘を受けた動画でした。
私だった福島県人ですので,本当に心が打たれます。中々できる事では、ありませんよ。人として,熱い心の持ち主ですね。改めて、お礼を、言いたいです。心から合掌します。
そういえば自刃後の遺体がどうなったのかは考えもしませんでした。吉田夫妻、村人によって埋葬をしたんですね。でも埋葬したのにまだ掘り起こすって残酷過ぎます。人間がやること!😢若き少年達を思うと胸が熱くなります。まだ子供でしょう!また機会があったら飯盛山に行って手を合わせたいと思ってます🙏あきくん、お疲れ様でした🙇♀️
白虎隊自刃の話にはたくさんの説がありますが、飯盛山で自刃したのは事実です。未来ある子供達が自らその道を閉ざしてしまうほどの残酷な戦争は耐えられませんね💦
私は、横浜出身ではありますが、私の両親は会津若松出身で、父方のご先祖様は、宮大工をやっていた方であり、飯盛山にあるさざえ堂を立てた棟梁の方だとおじいちゃんから聞いて育ちました。私は、さざえ堂に遊びに訪れたり、鶴ヶ城に行く度に会津戊辰戦争の白虎隊の悲劇を話を思い出しいろいろ想像して考えます。 白虎隊の悲劇があったからこそ今私が生きている。それを考えると会津に誇りを持ち、1人1人が、先に亡くなった方の命を無駄にしない為に、今悔いなく恥ずかしくない生き方をしていきたい。
さざえ堂建設の棟梁だったなんて凄いですね❗️先の戊辰会津戦争で新政府軍に敗れ大変な苦労をしてそれぞれに国の為に生きた人々。会津藩であったりそれぞれの藩であったり先人の生き方や考え方は本当に勉強になると思います。自分も会津に生まれたことを誇りに思います頑張りたいと思います😊
妙国寺は、家からさほど離れていない所。徳川の葵の紋とは違う、会津葵の紋の墓もあります❗この時の緋毛せんの一部が、白龍山泰雲寺に寄贈され住職に、父の一周忌に拝見させて頂きました‼️
何故駄可、解りませんが?此の投稿等で会津や、東北丿、悲劇を、知ると毎回涙が、出ます知り合いや、繋がりが、或るの、理由デワ、有りませんが!
いつもありがとうございます。只見線の大塩(金山町)で仕事をしたことがありますが、会津にはぜひ行ってみたいと思っています。
こちらこそご視聴ありがとうございます😊ぜひぜひ会津へ来てください❗️
会津藩、白虎隊大好きです…!会津行きたい……😭😭😭😭😭
ぜひぜひ会津へお越し下さい😊
@@aizuchannel はい!行く時が楽しみです!!!!!
遺体を掘り起こす等と言う非情な行為に出た政府軍は許せませんよね.
京都守護職の任を忠実にはたし、孝明天皇の信頼も厚かった会津。そんなこともあり、勝って官軍となった賊軍からの熾烈なバッシングの的となってしまいました。本当に、必要ない戦争でした。
孝明天皇に忠義を尽くした松平容保公そして会津藩、どこでこうなってしまったのか❓
負けた側は本当に悲惨です。
悲しいお話がたくさんありますね。
こんにちは😃白虎隊士中二番隊の飯盛山での自刃についてはかなりの説があり本当の所はよく分かりませんね。実際にその場に行って少しでも白虎隊士の辿った道をお届け出来ればと思います。
会津に行ったのは20年前になります。観光地は一通りめぐりました。良い思い出です。またいつか家族を連れていきたいと思います。
ご視聴ありがとうございます😊コロナが落ち着いたらまた観光に来ていただきたいと思います⭐️
日本人同士が戦う。。。アメリカでわ南北戦争。。政治家の為一般市民が巻き添い。。悲しい事ですね!今も昔しも変わりはありませんね?
歴史的な解釈はより詳しく勉強されてる他の方々に迷惑をかけてしまうので省かせ頂きますが、 よくぞアップして頂いた事に感謝をします。会津生まれとして誇りに思います。
勉強不足で至らないことばかりですが💦
@@aizuchannel そんな事はございません。本当の歴史の真実はおそらく誰にもわからないと思います。 ただ 会津の人間として会津の事で不愉快な事言われたら理不尽であろーがなかろーが許す事ができません 笑
子供の頃に会津一回行ったけど衝撃的だった、そのうちまた行きたいな
また会津へいらしてください😊
1週間前に会津に行き、白虎隊の墓と自刃の地に詣でてきました。隣の新潟県も、各地で北越戦争が行われており、東軍(旧幕府軍)の悲話がひそかに語り継がれています。新潟県小千谷市の朝日山では、東軍が防塁を築き、西軍(新政府軍)との間で激しい攻防戦が行われました。双方多くの戦死者を出す闘いとなりましたが、敗れた東軍はさらに長岡→見附→三条→会津へと後退していきます。勝った西軍兵士の遺体は同じ小千谷市の船岡山に手厚く葬られましたが、敗れた東軍兵士の遺体は供養をすることを厳しく禁じられ、野ざらしにされたそうです。これを哀れに思った地元のお寺の住職さんが、東軍兵士の遺骨を集めて朝日山の麓に葬りましたが、それは北越戦争(1868年)から85年後の1953年=昭和28年のことでした。昭和28年・・・・太平洋戦争が終わってから8年も経ってからのことです。朝日山で戦死した東軍兵士の遺体は、明治→大正→昭和の太平洋戦争と続いた激動の時代を、朝日山にうち捨てられて、雨風に加え越後の深い雪に晒されていたのです。なんと悲惨な話かと思います。朝日山のそこかしこに西軍兵士の供養塔があり、そこで斃れた兵士の名が記された札が立てられています。一方の東軍兵士の墓は、朝日山のふもとの静かな木立の中に在ります。新潟を訪れた際は、ぜひお越しいただき、香華を手向けてください。
会津へいらしていたんですね😊新潟には伴百悦さんのお墓へ行った事はあるのですが戊辰戦争関係の場所へはまだ行った事がありません。詳しく教えて頂き感謝です。ぜひ行ってみたいと思いました。
故旦那様の、祖先が、白虎隊でした。すごいですね。おどろきです。ありがとうね。
藩士の遺体が長期間野ざらしにされていたことは歴史書で読んでいたいましたが、これほど歴史的事実の説得性のある解説は見事です。それにしても、遺体に対する扱いの残酷さは何なのでしょうか。官軍の遺体もあったでしょうから、死者に対しては博愛の考えで敵味方供養塔みたいなものはなかったのでしょうか。
会津藩士の遺体の野ざらしに関しては諸説ありますがいずれにしてもしばらくそのままになっていた遺体はあったと思います。近隣の住人がひっそりと埋葬した遺体は(会津軍、新政府軍共に)相当数あり小さな石だけの供養塔が置かれたお墓もあります。
飯森山の白虎隊の戦士のお墓には、小学校の修学旅行で訪れて、あまりに悲しい結末に胸を痛めて、その後も再びお参りに訪れました。私の実家のすぐ裏に長岡藩の河井継之助と官軍の岩村精一郎の会談の場であった慈眼寺があります。河井継之助が地元を戦争にしないために、精一杯嘆願書を書いて上奏して欲しいと訴えたにもかかわらず、あまりに高圧的かつ考えもなく破談にされて、悲惨な戦争になりました。地元長岡の人達は河井継之助を恨んだ人も多かったそうですが、あの時きちんと向き合って話し合いができたら…。同じ日本人同士の争いは辛すぎますね。日本人は亡くなった人にまで仕打ちをするような民族とは…😢これもショックでしたが、そのようにさせるのが戦争なんですね。改めて戦争を憎みます。私達は先人からの歴史の教訓を知る必要がありますね。今また日本の危機ですので。改めて先人に手を合わせたいと思います。
避けて通れない戦いだったとしても酷いと思う所はありますね。おっしゃる通りその事から学びより良い世界を作っていきたいですね。ご視聴ありがとうございました😊
飯沼貞吉はいい人やったと爺さんいってましたうちの家計は松平容保に仕える家でじいちゃんは貞吉氏と親戚でいい人やったと言ってました西郷頼母とも親戚な家計です私の家は
ご視聴ありがとうございます😊そうなんですね❗️すごい家系ですね。飯沼貞吉さんの人となりをお爺さまから伝えられるなんて羨ましいです。
長州の資金は何処から得たのか?兵隊は何処から集めたのか?日本での戦の文化が違う感じがします。
薩摩藩に武器を譲ってもらいました。兵士は薩摩や長州以外の藩からも最初から討幕派で戦っていたわけで、別に薩摩と長州藩だけではないですよ。中心に薩摩や長州がいたというだけで、討幕派に賛同する人間は多かったわけです。
今、真実が、明らかになってきてますね。龍馬伝なんか、ちやほやされてますが、こころのなかは、やみですからね。😢
会津の者ではないが長州の蛮行は永遠に許さん。
長州の蛮行といっていますが貴方は歴史を知らないのでは?
旧幕府軍の遺体を埋葬した者は罪として、野晒しにする様に命令を出していたのか西郷隆盛ですよ。なので、どちらかといえば薩摩なのではないですかね
この頃の長州藩の主力は長岡藩を相手にしてなかったっけ?会津藩を相手にしてた主力は薩摩藩・土佐藩だったと記憶。
@@lon4557 長州は蛮行をやっていないとでも?歴史をしらないのはあなたでは?
@@user-vk8uu9nv7n18 当時の時代なんて蛮行はどこもあったのでは?義を主張する会津藩ですら数々の蛮行があったのですから。幕末の戊辰戦争についてはそれなりに知識はあると思っています。
墓石を見ると当時の戦況を想像しています、胸の痛む想いがしますね。
墓石を見ると本当にここで戦いがあったんだと実感しますよね。
@@aizuchannel 天守閣から見た飯盛山は近くに感じましたね。機会があれば是非訪れたい所です。
ぜひまた会津へいらして下さい😊
@@aizuchannel 有難うございます、是非飯盛山の墓地に立つてみたいです。
素晴らしい動画ありがとうございます
こちらこそご視聴ありがとうございました😊
会津好きですが暫く行けていません。(20年以上)又行きたくなりました。無論、北越戦争のことは存じています。会津の方たちは全国に散ったようですね。
僕は、子供のころから今に至るまで会津近辺に行っている者です。まあ、子供時代は、猪苗代スキー場に行くということが、目的でしたが、最近では、会津という雄藩の幕末騒乱においての状況を只々「悲劇の」○○のような視点から視るのではなく、そこで生きた人々が如何に生きようとしていたのかということが知りたくて、京都壬生の新撰組頓所に行ったりしたものでした。で、会津若松に行く度に不思議に思うことがあり、お尋ねしますが、藩校であった「日新館」は本来、鶴ヶ城の南側に隣接されていたものですが、現在、河東という驚くべき場所に、しかも、民間会社により運営されているというある意味で現代への歴史を語り継ぐということを行政は観光の中心にしているにも拘らず、何故にこのような事態となってしまっているのか、ご存じでしたら教えていただきたいと思います。
歴史に『悲劇』は有りません。『悲劇』は演劇や小説です。
確かに若松市内から離れた場所にあるのは僕も不思議に思っていました。行政や利権が関係しているのかな?とも思いますが僕には良く分かりません。答えを出せなくてすみません🙇♂️
登録致します。義息子が白虎隊に引かれ、刀鍛冶、火縄銃を初め全国津々浦々駆け回っております。
ご登録ありがとうございます😊義息子さん白虎隊に興味を持たれたんですね❗️会津へは来られましたかね❓他にも白虎隊や戊辰戦争に関する動画を投稿しているのでよかったら見てみてください😊ruclips.net/p/PLPo14xuMXjegVbnIgqNffA_mborw6kBTM
@@aizuchannelこちら 静岡です。その類いの保存会をやってますね。詳しくはわかりませんが良くラジオ、TV、雑誌などにはでてます。
このときは 【 賊軍 】 にされた会津藩士はその恨みを忘れず、後年の西南戦争では、今度は 【 官軍 】 の「 抜刀隊 」 となり積年の恨みを晴らす・・・。
相当数会津出身者が西南戦争に参加したようですね。
賊軍というのは否定できません。会津藩は 蝦夷地(現在の北海道)の一部(一部といっても面積的にかなり大きいですけどね)を朝廷へ無断でプロイセンに売却することを計画。輪王寺宮を拉致し三種の神器を保持せぬまま東武皇帝として即位することを強要。
12年前に飯森山と鶴ヶ城行きましたが感無量でした。
実際に戊辰の現場に行くと考えさせられますよね。
なんて、酷い事をする。まだ、若い少年達を、亡くなった遺体を、掘り起こしてまで、野ざらしにするとは、天罰が末代まで下る。神が許さない。亡くなった者は、丁重に、埋葬するのが、人である。戦いの中にも、礼儀である。お互い様なのだから。年端もいかぬ、子供に無惨な事をするなど、持っての他だ。
その通りですね。でも当時と今では死に対する考え方も違ってたでしょう。また新政府軍側には多くの藩がいましたから。東北の藩についても、最初から新政府軍についた東北の藩もいましたし、途中から寝返った藩もいたので会津戦争の時では大半の藩が新政府軍側について戦っています。ですので当たり前ですが、それだけ多くの人間がいれば、そういう悪さをする人間もいると思います。
仮埋葬の地から掘り返され、野ざらしに悲憤!薩長に怒り。飯盛山は何度か訪れ、その度泣け。あの慶喜のやつも来て、隊士の墓を撮った写真見たことあるけど、厚顔無恥に呆れる。
時代とはいえなんとも言えない悲しい話ですね💦
@@とし坊-u4l なんで?
もう全滅だが一人、飯沼某という若者は通りすがりの農民に助け出され生き残った。たった一人、その時に身に着けていた血の付いた仙台平の袴は白黒tvとはいえ鮮明に記憶しています。広げたら、まだ子供じゃないですか15歳だから今でいえば十二歳・・・・ 親も自刃した誰も死んだと思たんだろうね。 上司は反対し若者は、覚悟の特攻ですから絶縁の文をかいて出陣したと思う。泣く( ノД`)シクシク… もし飯沼さんが生きてなかったら。。。多くの無名の無数の少年隊がいたというから全滅したぬ体もいたろうに
飯森山に行きましたが、まだまだ行ってみたい場所が増えてしまいました。。それにしても、なぜ遺体を野ざらしに、、これが今も続く話の根底にあるのかもしれません。
妙国寺は飯盛山のすぐ近くです😊ぜひ行ってみてください❗️www.aizukanko.com/spot/39
会津士魂と言う小説で会津の幕末を知りました。作者の早乙女貢先生は亡くなられていますが、元藩士の子孫とか。
親が会津藩士で早乙女貢さんは中国生まれだそうです☝️
NHK大河ドラマ「八重の桜」にて板垣退助(キャストは加藤雅也)が"会津戦争の時に会津藩士はよく戦ったが領民は全く協力も味方もしなかった。もしも領民が会津藩に協力していたならばもっと激戦になったであろう。"*って言うシーンがあります。白虎隊に象徴されるようにお涙ちょうだいの悲劇だけで済まされるほど簡単な話ではなかったようです。
確かに農民や一般の方と会津藩政側の摩擦はあったそうです。見方を変えるとまた違った話がたくさんありますね。
まあ仕方がないのかもしれません。会津藩は領民から財産を没収していますからね。実際に会津のほうで商家をやってた方も財産を没収されて会津藩に対して良いイメージはないと言っていました。
地元ですが勇ましい会津の人々は今も受け継がれてます(^^)もう少し時が穏やかだったらと思います。
ご視聴ありがとうございました😊本当にもう少し穏やかだったらと思います。
中村半次郎はまだ会津藩士への配慮を忘れず容保公に感謝されたが、白虎隊士の遺体をわざわざ掘り返して野に撒くとはゾッとする。未だに会津が恨むのが分かります。
遺体を掘り返したなんていうのはそもそも根拠はなんでしょう?会津視点の歴史本ってデタラメ多いですよね。例えば埋葬が半年禁止されたなんて言われていたけど、後に会津若松で資料整理してた方が会津戦争後の一週間後に埋葬された資料を発見しています。
子供が、新撰組みたいな格好をした人がよくいる。と、言っていました。今も、会津を守っているのでしょうね。
子供さんには見えたって事なんですね‼️今も会津を守っていてくれていたら嬉しいですね😊
@@aizuchannel さん私はたまにですが子供はよく見るので飯森山を夜に散歩していたら家まで隠れながら付いて来てたみたいです😄あと、白虎隊のお墓?児相の近くの寺には狐と龍が混ざったものが寺から行ったり来たりしているそうですよ🐲🦊
ナイス👍
ありがとうございます😊
疑問・どおして、飯沼貞吉ちなみに(貞雄)生きて残っても白虎隊志ですよね。どんとして画像がないのですか。
ご視聴ありがとうございました。飯沼貞吉さんの写真は現在も多数残ってますが動画では入れませんでした。使えば良かったですね。すみません。こちらのサイトに飯沼貞吉さんの画像が載ってますja.m.wikipedia.org/wiki/飯沼貞吉
時代とはいえ悲しい涙が溢れました。
悲しい歴史ですね。
去年の9月にここを訪れました。いかに賊軍とはいえ。故郷を守るために懸命に戦った少年たちの亡骸を野晒しにするとは。砂を噛む思いでありました。当時の軍監中村半次郎、後の桐野利秋も情のある人間です。命じる方も苦しかったのではないかと思う時。目頭が熱くなりました。会津の歴史は侍の鑑。深く潔い士魂は不滅ですね🥺
考えれば考えれるほど理不尽極まりないのが戊辰戦争だと思っています。偽の錦の御旗さえ掲げられなければ、福島の歴史、東北の歴史は変わっていたかもしれない、若い命を散らすこともなかったかもしれないと思うと、腹立たしく悔しい歴史だな…と。合掌。
とても良い歴史探訪ですが 6:19 「軍艦」?など時折 誤字があります 残念です「軍監」ですね 頑張ってください
誤字読み違いが多くあり本当にすみません🙇♂️気をつけて動画を作りたいと思います。ご指摘ありがとうございます。
会津が好きで良く行きます。今までは、上っ面だけの会津を見ていました。知り合いに斗南藩迄行かれた方の子孫の方が居られます。ご先祖が書き残された日記が有るのだそうですが、内容がとても公表出来ないものだそうで、概要だけを聞いた事が有ります。それ以来AIZUチャンネルが唯一の会津情報源と成りました。こらからも楽しみに待ってます。
栄養失調で死んだそうですね。海岸部に住んだ人たちは、打ち上げられた海藻を拾って鍋に入れて、雑炊にして食べて命を繋いだ。郡長正父の萱野長修が会津戦争の全責任を負って自刃した為に家名断絶となり、長男は萱野家を家督相続するが次男以下は郡へ改姓した。三男の寛四郎及び会津藩士の柴太一郎の証言によれば郡は先祖の姓であり、会津萱野家初代の長則の母親が郡家出身。母方の姓との説は「初代長則の」が欠落して伝承されたもので、会津藩士に郡家は存在せず、長正の母親は一ノ瀬家出身。文武両道に秀で、他の会津藩(当時は斗南藩)の子弟7名と明治3年(1870年)に豊津藩校育徳館に留学した。翌年の明治4年(1871年)5月1日に自刃したが原因は不明であり、食糧事情を母親に報ぜんとした手紙或いは母親からの返事が拾得されたとの説があるが、後世の挟間祐行の創作である。墓所は甲塚墓地(福岡県みやこ町豊津)ならびに父の眠る会津若松市の天寧寺。命日は豊津の墓には五月朔日と刻まれており、それが遺族に伝えられた段階で5月18日になっている。残る写真は明治3年(1871年)に横浜のフェリーチェ・ベアトの写真館にて撮影したコロジオン湿板写真であり、硝子原版は現存。我に俺が尋ねたところ、郡長正の自刃の動機は、萱野長修を死に追いやった、梶原平馬、山川浩、佐川官兵衛に対する無言の抗議だったそうです。
こういう所業を聞くと今日のこの国の有り様に納得する合掌
會津白虎隊の他にも、二本松少年隊の事も思い出してほしい………白虎隊より知名度派低いかも知れませんが………
二本松少年隊の話も切ないですよね。いつか取材したいです。
義忠烈士。私達会津人には口惜しい歴史認識は今以て忘れてはない。什の掟
とりあえず、ドラマ白虎隊を観たら良い。
薩長の指示で埋葬が禁じられていたかは分からないけど、遺体が放置されていたのは事実らしいね。
敵兵の肝を食らった記録もしっかりあります。これは薩長も会津も同じですが。
そのような記録もある様ですね。戦争とはいつの時代も残酷です。
遺体の埋葬は明治2年からだと言われていましたが、埋葬された記録を会津若松市で資料整理をしていた方が見つけて、その記録によると明治新政府から命令されて埋葬されたのは会津藩降伏後の10日後ということです。
ていうかこの情報何年も前の情報なんですけどね。
近いうちに福島県民のパートナーのところに行くので、鶴ヶ城、飯盛山など小学修学旅行ぶりに行ってみたいと思います!階段がキツかった記憶もあるのですが(−_−;)
ご視聴ありがとうございます😊ぜひぜひいらしてください‼️飯盛山の階段は結構キツいです💦ゆっくり登れば大丈夫かと思います。隣に動く歩道もあるのでそちらもご利用ください☝️
戦で流れた血 想像が駆け巡る
一度埋葬したにも関わらず墓を掘り起こすなど日本人のメンタルとして考えにくいですが、戦争というものはそのようなものかと思うよりほかはありませんね。飯盛山兄は何度も訪れておりますが、この動画にも少し映っていましたが白虎隊が自刃した地に仙台の某私立高校創設者の胸像がありますよね。数十年前ですがこの方は会津藩に関係がある人なのですか?ここの博物館あてに質問しました。すると会津出身の方ではあるが特に会津藩には関係がないとの事でした。飯盛山は観光地でもあるが、一般の墓地であって誰でも檀家になれるとの事で要するに金で…これ以上言いませんが何もあのような聖地に,,,,私仙台人として悲しい思いをしました。
僕もはじめに見た時は『んっ?』と思いましたが、誰でも檀家になれると言うことは思いがあってここにお墓を建てられたのだと思います。戦争とは人の尊厳まで奪うものなのかと今でも放送されるニュースを見るたびに悲しくなります💦
@@aizuchannel ただの売名行為でしょ
もしも、私の、想い、考え爾、に御耳を、傾けて、降される、御、方が、要らしゃる、丿、ならば此の弔わて、居る周りに桜の木と、桃の木と、梅木を、植えて欲しく想います!
明治 大正 昭和 平成 令和すべての時代に総理大臣を輩出したのは山口県だけ
素晴らしいことだと思います😊
維新からまだ約120年まだまだ許されませんよ
120年前だとギリ20世紀じゃん
山川健次郎は東大総長飯沼定吉は技師の親玉に過ぎない。飯沼定吉に教育する程の価値は無かった。飯沼定吉は飯盛山の生き残りとして、大正時代に著名人と成って居ました。其れに目を付けた長州カッペの婆が創作した話頼三は、長門国美祢厚保(あつ)の屋敷……ここに戻ってきたとき、彼の乗る馬の轡(くつわ)を少年にとらせていました。頼三は少年のことを、「さださぁ(さださん)」と呼んでいたとか。その少年が飯沼貞吉だったと言われています。その時の年齢は14,5歳でしょうか…… 長州と会津は仇敵関係。敵の少年を連れ帰ったということを知られると何かと不都合。そのため、飯沼少年のことは秘匿されています。頼三は「さだ少年」のことは何も書き残しておらず、楢崎家に奉公していた高見フサの口伝で、白虎隊にいた貞吉少年がこの地で暫く養育されていたことが伝わっているのです。 頼三帰郷の祝いの席での話。酒に酔った村人から云われた「生き残れてよかった」という言葉に傷つき自刃を図ろうとした貞吉に対し、頼三は『生き残って社会のために尽くせ』と諭したと言われています。 後年、飯沼貞吉は下関で電信技士として働き、工部省電信建築技師の重鎮にまで登り詰めます。そして、ソウループサン間の通信架設責任者にまでなりました。まさに日本の電信電話の発展に寄与し、正五位勲四等を受章しています。 楢崎頼三が飯沼貞吉を会津から長州に連れてきたのは、会津にいれば「死にきれなかった武士」として負い目を感じて生きざるを得なかった彼を救うためだったと思います。会津から遥か離れた長州で彼は生きることの大切さを教えられ勉学に邁進し、近代日本の電信に尽くす76年の人生を全うしたのでした。 一方彼に生を与えてくれた頼三は、兵部省の命で留学中に31歳の若さでパリで客死しています。結核でした。そのため彼の墓はパリのモンマルトルにあるそうです。貞吉を生かした頼三の方が短命だったんですね…… 頼三が貞吉におこなったことは、まさしく、『恩愛』山口県の美祢の山中に、幕末から近代日本にかけての知られざる秘話がありました。 さて、本編とは外れますが、貞吉を世話し秘密を抱えていた高見フサ。彼女の息子、高見三郎は、この地で炭焼きをしながら勉学に励みました。小学校の代用教員から猛勉強し内務省に入省。さらに衆議院議員にまでなり、最終的には文部大臣にまでなっています。
若い少年達は、自分の、命、よりも、時の情勢が命だった!のか?私が、母だったら?時の母と 同じかも知れない!皆。目的が一緒だから。名誉とは?何か!少年達へ令和の時代に、なっても 白虎隊の 凛 とした姿立派です。空を仰ぎ、涙。
いろいろな事を考えさせられますね。
山口県は、明治維新と戦後復興の時代を中心に九人もの首相を輩出してます。日本は長州人が主役である時代に上り坂になり、そうでない時代は凋落しています。 「近代日本」は世界史上で燦然と輝く存在として記憶されるだろうと思います。
命は自身、最高の宝。
長州人も復讐する相手を間違えておる。
親分の二人は切腹しなかった?1か月の謹慎で済んだ?
この後東京で謹慎しています。その後は歴史の通りです。
まるで隣国のごとき埋葬された墓を暴くなど薩長武士の非道西南戦争の「会津抜刀隊」の活躍の要因かな。
「隣国の如き」ってなんですか?外国を罵れば日本の恥ずべき行為が軽減されでもするんですか?恥を知りなさい。
会津藩が蛮行をやった「から」といって白虎隊を叩く人がいる。白虎隊がどんな蛮行をしたのか言ってもらいたい。
会津藩は実際に蛮行はしていますよ。脱藩した水戸藩士たちを使って他の藩に対して略奪行為や放火を行っています。また農民から凶作用の米をとっています。なぜかそういう会津藩にとって都合の悪い事はあまり知られてないです。
薩摩、長州、土佐を思い出します‼️
妙国寺は実家の真ん前です(笑)
そんなんですね‼️お寺の方がとても親切な方でした😊
薩摩藩士の中村半次郎は容保候の降伏に際して号泣し、その後も敗兵の会津藩士に同情して寄り添い、容保候に深く感謝されて宝刀を賜わったと伝わつておりましたね。薩摩の藩風や伝え聴く中村半次郎の性格から白虎隊士の辱めは考え難いですね🤣
中村半次郎さんの人柄が伝わるお話はたくさんありますね。心優しいお人だったのかと想像します。
@@aizuchannel 中村半次郎は薩摩藩屈指の示現流の達人で、騒乱の都で西郷どんの身辺警護で近付く刺客をしばしばしば切り捨てたとされて人斬り半次郎の汚名を蒙っておりましたね。人柄は紳士とされて明治陸軍の少将でしたが、西南戦争の城山玉砕戦で西郷どんと運命を共にしました!信州上田藩の赤松小三郎は幕府の密偵と見做されて藩命で半次郎に暗殺ですね。 長岡藩の山本帯刀も半次郎率いた薩摩兵に斬首されておりました🤣 会津の鬼官兵衛や庄内の鬼玄蕃に相当? 薩摩の軍監であれば、白虎隊て名前がでて可怪しくないですね。屍の扱いは、微妙な問題になりやすいです🙇
戦国時代って凄いですね、若きして鶴ヶ城を診て終わりだと思い自死するって醜いですね。やっぱり平和が一番です。
生きて虜囚の辱しめを受けずか...物事に真っ直ぐなのはいいけど限度を知らないとね。
なんともその時代の考え方や生き残っても酷い事をされるからなどがあったんでしょうね。
@@aizuchannel それが、戦陣訓として太平洋戦争まで持ち越されたんですから。何かの読み物か何かでこういった話が拡散されたのが影響してたかもと思ったところです。あと、こういった事例は、せめて士官と兵隊では分けて欲しかったよなと思います。権限は無いのに責任は一緒かよという気持ちです。
失礼ですが、白虎隊の悲劇は壮麗で悲しい事実ではあるが、コメントや動画には過度の思い込みや事実に反することがさも事実のように書かれている点である。多いのが長州が蛮行をやったという思い込み。長州兵隊は戦後の救援活動には入ったが戦闘には間に合っていません。従軍医と救援部隊が落城時に間に合ったくらいである。むしろ怪我人や病人や白虎隊の生き残りを世話したくらいです。長州兵に助けられた人は昭和に入っても感謝する人は沢山いました。土佐や紀州兵や関東の官軍は幕軍と同じく組織や軍律が近代軍隊でないのである程度の戦地での略奪や戦利品の流用などの蛮行もあったようですが、会津も芸州口の戦いで退却時同じように食料や物品の掠奪をしているので戦時下の蛮行を批判できる立場ではないのでは?まさに隣国のように被害者ビジネスを今に続けるのはいかがとか?
明治新政府ができて、全て、終わったのに、薩長軍は福島県のほとんどの城を襲いました。勿論、そんなことはしなくて、良かったのに。ーーー私の薩長に対する怒り、恨みは全然消えません。ーーー現在の薩長にはどんな気持ちもありません。
松平容保は自刃していない。主君に申し訳ないと思うのならまずは主君が自刃するべき。若い身空で思い詰めることはない。この戦争の責任は君たちには無い。生きて注ぐ忠義もある。
私は、この話を知ってから、薩摩と長州が大嫌いになり、薩長アレルギー発症しましたわ・・・。とはいえ、長州は現在、あの迷惑系RUclipsrやら給付金誤送金で、大騒ぎになってますよね・・・
時代が変わろうどう山口県の奴は変わらない
@@電気工事士の頂点 様山口県出身の、金子みすゞさんは、優しい方なんですがね・・・山口県って、良い人とクズ野郎が、 極端過ぎですよね・・・
薩長は反省してくれ
うーん、私からすると、会津藩にも問題はあると思いますけどね。他のいくつかの藩も旧幕府軍に協力したとして朝敵扱いになるも、すぐに恭順して許しをもらっていますが、会津藩だけはプライドからなのか、反抗ばかりしていました。新政府軍から寛大な処置をすると言われても返事を何日も無視して、徳川のなりいきを見届けるまでは謝罪しないと返信。その後に新政府軍の占領地に奇襲をかけてきています。
私の総曾祖父母がよく、萩や、長州薩摩の者とは、結婚するなと言っていました。まだ中学生だった私には、よく分かりませんでした。総曾祖父母が亡くなってからは、曾祖父母や、祖父母や、両親に同じ事を言われて育ちました。総曾祖父母の兄弟姉妹が戊辰戦争で亡くなっています。私の中にもまだまだその血が流れています。長州や薩摩を許せません。もう二百年経つたけど許せません。
白土さん多分それは逆恨みなんだと思いますよ。会津戦争が起こった決定的な原因は政府の参謀下を斬って、会津藩が政府軍が占領している白河領地を攻めた事です。また政府軍は会津藩を攻撃する前に会津藩に対して今からでも謝罪すれば寛大な処置にするという通達も出しています。それを何日も放置した上に謝罪を拒否する返事を会津藩はしています。
@@山本渉-d7t 逆恨みしていません。薩摩、長州が、幕府や、朝廷を蔑ろにしたからだと思います。会津は、忠義一途な藩ですよ。薩摩長州は、どうでしょう❔今でも、会津をはじめ福島では、先の大戦は、戊辰戦争です。昔程ではありませんが、薩摩長州を嫌っている方々が、結構いらしゃいます。白虎隊や勇士軍や娘子軍の事を思うと、心が辛く悲しくなります。
@@siratyan-j8d 薩摩藩や長州藩は朝廷を蔑ろにしてはいません。まあ朝廷は日本国では一番上の地位ではあるものの、大きな力をもっていたのは徳川家です。だから少し舐めていたところはあったかもしれない。ですが一番天皇に対して舐めた態度をとっていたのは徳川家です。天皇は徳川慶喜が勝手に外国と条約をいくつも結んでいるので激怒して天皇と徳川慶喜の間には信頼関係は揺らぎ亀裂が入っています。その後に天皇が徳川家を無視して水戸藩に勅命が下った事も知っていますよね。当時は暴動があちこちで起き始めていて、徳川家の言う事を聞かない藩も少なくはなかったので薩長がいなくても徳川家が滅ぶのは時間の問題でした。会津藩は忠義一途とは言いますが、徳川家の処分について審議されている時に会津藩は徳川家よりも自分たちの立場の事についての申し出しかしていません。また会津藩は徳川家から開発と管理せよという名目で蝦夷地の一部を渡されたにも関わらずその土地を外国に売却しようとしていたやりとりが2010年以降にドイツの軍事図書館で見つかっています。新聞でも大きく掲載されましたよ。白虎隊や勇士軍や娘子軍の事を思うと悲しいのはよくわかりますけど、戦争が起きる事になったのは会津藩が降伏や謝罪をしなかったからです。なので恨む相手を間違えていますよ。会津藩が降伏や謝罪をしてるのに、新政府運が無視して攻めてきたならそれは新政府軍が悪いとは思いますが。会津藩の白虎隊などしか見えていないのでしょうが、戦争で亡くなったのは会津藩の人間だけではないです。
中野竹子を顕彰する会津若松の人たち會津最強の女 諏訪喜智子を何故、顕彰しないのでしょうか?戊辰戦争百話・目次 - 会津の歴史 第六十四話:豪快諏訪喜智子の奮戦◆第六十四話:豪快諏訪喜智子の奮戦◆■喜智子は、文政二年(一八一九)二月二日、会津藩士伊藤氏の三女として生まれた。名を初め悦といい、体格ひとにすぐれ、性質剛健、文芸の諸芸に通じて男勝りの評があった。結婚して二人の子をもうけたが、姑と折り合いが悪く離婚。再婚はしない決意であったが藩内の諏訪大四郎に懇望されて、名を喜智(後に喜智子)と改めて再婚した。再婚後は内に能く治めて紊(みだ)れることがなく、外に対しては夫を助けて功多く、諏訪家の家運は次第に開け、大四郎は遂に禄千七百石の老職にまで昇進した。また晩年もうけた一子栄は石川数馬(四百石)の養子となった。■慶応四年(一八六八)八月二十三日、西軍若松城に迫るや、夫大四郎は先に登城し、養子の伊助は陣将として日光口にあった。喜智は伊助の妻子と実子の栄を家の従長に託し、各自に五百両を腰に結わえさせて山村に潜ませ、他に金子を埋めて「お前たち婦女・幼童らは国に殉じなくともよい。他日この金をもって酒舗を営みもって諏訪家の祀りごとを絶やすことのないようにせよ。私は夫の跡を追って入城し、城を枕に死ぬるつもりである」と、薙刀を携え、供の者一人を従えて追手門より入城した。■その頃、追手口からの攻撃に攻めあぐねていた西軍は、やがて搦手(からめて)に目をつけ、城南に迂回して天神橋畔から攻撃を加えてきた。この報に接した守備兵は八、九十名の決死隊を募って南門への進撃命令を伝え、小室金五郎左衛門がこれを指揮して果敢に突撃し撃退せしめた。同じ頃、西出丸の讃岐門にも敵が押し寄せ、今にも破られそうになったというので、松平容保は喜智に命じ戦況を見にやらせた。喜智は婦人十人ばかりを引き連れ、薙刀を小脇にかかえて駈け付けてみると味方は苦戦している。婦人達は左翼めがけて斬り込み、これを見事に撃退したという。■籠城中、喜智は山川大蔵の母唐衣(からころも)と共に城内の女子の総取締りに任じ、死者の埋葬、傷者の介抱、食糧の炊出し、弾丸の製造などに従事した。しかるに戦況が振るわず、遂に喜智は操銃法を知る婦人数名を集め、一夜潜行して城を出、二ノ丁の敵兵を襲撃、敵兵の狼狽して逃走したのちの遺棄品を獲得して凱旋した。ところがこれが城内に知れ問題となった。というのは出撃の志は嘉すべきも、もし、屍体を敵に見せるような事にでもなれば、城中に兵尽きて婦女子をもって代わらしめたかと思われ、却って敵の侮を招くことになりかねないと言うのである。かくて婦女子の出撃は以後固く禁じられた。■開城後、喜智は大沢村に住したが、斗南藩に移封となるや、実子栄とともに会津に残り藩主、ならびに諏訪家の墓所を守った。晩年は瓜生岩子の慈善事業に賛同し瓜生会会津支部長として奔走した。後東京に移り明治四十年四月四日、八十九歳で没した。青山墓地に墓がある。■
御子孫の方が事実だと仰ってました 会津は5〜6回行ってますが妙国寺だったんですか 知りませんでした 今度是非とも行きます
ぜひ会津へ‼️
ユダ金に踊らされて血みどろになった哀れな人達。
南北戦争と比べると、戊辰戦争の戦死者は全然、少ないですよ。
祖先も鶴ヶ城のお堀付近で亡くなり、遺体はずっと放置でした。
何年も恨んでも仕方ない。
これが歴史なんですよ。
今の会津人はしっかり受け止めてますよ。
両軍必死で生きた証だと会津人として思います。 ならぬことはならぬものです。
義に生きた証があることを誇りに思います。
こういった歴史があるからこそ会津に来た人にまた来たい素晴らしい土地であることを理解してもらってると思います。
語り継がれる地元の方の話は時に残酷であり教訓であり未来への指針だと感じます。
泣かせるね、貴方の言う通りですね。
その心意義は持ち続けたいものですね。
吉田伊惣治,左喜の夫婦の行いは、白虎隊にもまして、人間として崇高な行いだと感心する。
生き様は知られる事も無く、しかし深い人間愛に満ちていて心が満たされる。
放っては置けなかったんですね。
恥ずかしながら吉田夫妻の話は僕も最近知りました😅
15年ほど前に一度だけこの地を訪れました。
自刃の地から会津城を望み、私の足元で無邪気にはしゃぐ2才の息子を抱きしめながら、散って果てた若い命たちに、母の気持ちで思いを馳せました。
涙が止まりませんでした。
今息子は17才。
白虎隊の歳になりました。
弾けるような目映い青春を謳歌している息子です。
産まれた時代が違っただけ、同じ日本に生まれながら、白虎隊や後の太平洋戦争など、息子と同じ本来なら一番輝ける青春を謳歌出来たはずの若い命が、夢半ばで無念に散って逝ったと思うと本当に胸が張り裂ける思いです。
そしてそうまでしても我が国を守ろうとして下さった聖霊方には感謝と尊敬しかありません。
この聖霊方に私たちが恩をお返し出来るとしたら、やはり平和、泰平の世を築くことしかないと思います。
奇麗事かも知れませんが、若い命が戦いで散って逝くような世界は苦し過ぎます。
たなしい様、同様・私の孫は20歳、白虎隊の、魂を 教えて来ました。真剣に 耳をかし、両手を
膝のうえに置き瞬きもせず
聴き入りました。今の 僕は
何に 命を 捧げる?と、🇯🇵先人が、命を引き換えにいまの国🇯🇵があるんだね。大粒の涙💧
マナーのないガキはいらないから
まさにその通りです私も同じ福島生まれで、あいずだましにまけず、亡くなった人を裏切らず頑張ります、
因みに私は、白虎隊のファンでビデオ買いました
とても貴重な内容でした。損得ではなく義。先人の生き様、教え、誇りに思います。
ご視聴ありがとうございます。
自分がその場にいたらどうしていただろう?なんて考えてしまいました。
とても貴重な先人の行いを世に出す事は素晴らしい行いです。
特に東北の人達の素朴で義理固い一途な人柄が好きです。
損得しか考えない奴が多すぎます
会津は良い処が沢山あり僕は好きで毎月行ってます
もう20年以上続いてますが、まだまだ知らない会津の事が
ありますね、主さんのチャンネルで勉強させて頂いております、
有難う御座いました。
ご視聴ありがとうございます😊
会津が好きと言っていただいて嬉しいです。
僕も会津に生まれ育ってますが知らない事だらけです💦
これからももっと勉強して色々な会津をお届けできればと思ってます❗️
またよろしくお願いします。
ここへは何度か行きました。ちょうど剣舞をやっていて、少年隊に思いをはせました。会津藩士の忠義の心が切なくも
悲しさを誘いました。
先日飯盛山へ行った時も剣舞やってました。
こうして後世に伝える活動はいい事ですね😊
何とも言えない悲しい事でしたね。遺体を掘り返してまで野ざらしにした!と言う話を聞き、日本人のする事とは信じられません。
ご視聴ありがとうございます😊
当時の考え方が今とは違うとはいえとても悲しい出来事ですね。
検証しないで勝手に埋めるのは、現在でも違法ですから当たり前の事ですよ。
会津藩降伏後、会津世直し一揆で混乱していたし、会津藩士の処遇も次の戦の作戦・兵站と忙しい中、野ざらしにした!は言いすぎです。
実際、降伏後の10日経って埋葬命令が出てますから。
@@tamenobukuji7732
貴方の論も一理ありますね、
何人埋葬したのかも確認する必要もあったのだろうし。
掘り返してまで野ざらしにされたというのはそんな記録はありませんけどね。あくまで言い伝えでしかないので。会津藩は結構いい加減な情報が多いですよ。
@@白土保代 ほら、あなたが現に根拠の無い情報を、流してるじゃないですか?「結局薩摩長州が,新政府を立ち上げるために、有ること無いことを流して、白虎隊や二本松少年隊員達の愛国心を踏みにじったのです。」こんな根拠の無い物、どこの情報ですか?
あなたが思ってるように会津藩士が立派であれば、会津世直し一揆なんか起こらないんですよね。
会津藩士による蛮行の記録でも見て、もうちょっと謙虚になる事をお勧めしますよ。
私の父方の曾祖父(高祖父か)が江戸の幕軍残余と共に北上会津の戦いに参加した時仲間とはぐれ白虎隊の自刃直後の現場に遭遇したと父から伝え聞いてます其の有様に衝撃を受け今で言うPTSDのようになってそのまま函館戦争に、何とか家まで帰還したものの戦地での病から1月と立たずに亡くなったと。その間薩長奴等酷え事しやがって…あんな若え奴等が…と繰り返していたと聞いてます。それと父は生前曾祖父の此のエピソードを話してくれた後…「会津の涙はもう流さしちゃいけねぇンだ。」と良く言っていましたm(_ _)m
ご視聴&コメントありがとうございます。
実際にその場にいた方のお話は大変貴重で伝え聞いていたと言うことに驚いています。
これからも史実を伝えていってほしいと思います。
@@aizuchannel 様、ヒー爺ちゃんは江川太郎左衛門配下で砲台場築造にもあたりました。父は、ジーさんは幕府軍を見捨てられなかったンだろう。と言って居ました。母方の曾祖父は新撰組に居て箱館戦争で戦死したと聞かされて居ます。もしかしたら会津の戦いにも参加していたかもしれませんね。m(_ _)m
白虎隊の人たちが最初に埋められた場所とかたもりこうの謹慎させられた場所が同じというのが悲しいですね。
時代は本当に残酷だと感じます。
自分が見送った若い白虎隊隊士達が眠る場所に謹慎させさらるという。
この頃は義侠心のある方が多かったですよね。モラルが高いというか、侍に限らないと思います。会津の生き残りのご婦人の手記読みました。当時の鶴ヶ城の大奥でも、白虎隊かわいそう、と思われていたらしく、総髪の白虎隊ルックの若い子をみたら(その人は白虎隊じゃないのに)お女中がこっそり上等のお菓子くれたそうです。私は違う、と断っても押しつけられるように渡されたと書かれてました。かなり美味しかったそうです。
尺八の音色が悲しみ、哀愁を誘う。本当に良い動画ですね。
ご視聴ありがとうございました😊
ご返信ありがとうございます。🌠✨😉日本の為、人生を賭けた、心優しき戦士のご冥福お祈りします。🌠✨🙇
こうゆう動画を見て会津を訪れると、また違った思いで見る事が出来ますね。
ご視聴ありがとうございます😊
私も飯盛山に行きました。厳粛な感じが漂っていました。残った会津藩士は北海道に渡って屯田兵となり、西南戦争と日露戦争で武勇を立てました。見事に白虎隊の無念を晴らしました。
誰が白虎隊の無念を晴らしたって書き残してんだ?
勝手に作るな。
そもそも白虎隊は殆どが籠城してただろ。
戦地に出た部隊も隊長とはぐれた20人は
逃げてただけじゃないか。
@@hajimenoda
白虎隊士中二番隊の話ですよ。飯沼しか生き残ってませんが、当時10歳くらいの柴五郎大将(義和団事件で活躍して日英同盟の基礎となる偉人です)は西南戦争の結果は当然の帰結であると書き残してますよ。会津藩家老だった山川や佐川も西南戦争で戦ってますし。見事に白虎隊を含む会津の無念を晴らしたと言えると思います。
まあ、会津藩士は北海道に行った一部もいますが、大多数は斗南藩でさらに苦しんだ上で、2万の半分以上は故郷会津に帰った。
その屯田兵が西南戦争で鬼人の如く戦ったのですが、指揮官たる薩摩藩出身者が、故郷に刃を向ける訳にも行かず
消極的な行動と、戦功への評価が余りにも不公平で抗議して自決した屯田兵士官がいて伝説となっています。
本当に魂が永遠なら時代の移り変わりを彼らはどんな気持ちで見ているのだろう。
静かで深い動画でした。うPありがとうございました。
ご視聴ありがとうございました😊
彼らが今の日本を見たらどう思うんでしょうね❓
彼らに恥じない様に生きたいものです。
懐かしい。ここお寺のお子さんと幼稚園が一緒でした。一度境内で遊んだ記憶があります。こんなすごいところだと知ったのはかなり後です。
そうなんですね😊
僕もここが白虎隊の仮埋葬地だとは最近知りました。
他でも書きました、武士道を貫いた白虎隊の少年たち野盗山賊の振舞いの西郷一味、気分は西郷隆盛の自称薩摩隼人氏が自分は如何に素晴らしい男ぶりで鹿児島は日本一の男の産地であると地平線からの日の出見ながら育った屯田兵の孫に吹いてるの見てから西郷隆盛益々嫌いになるなった。吹かれた道産子は困った顔でニコニコしていたww
粗末な小屋で暮らし命削りながら零下30度の冬や大きなヒグマと闘いながら泥炭の湿地に緑の大地築いて支庁によっては食料自給率千三百%越えるようにしてくれたじーちゃんばーちゃんの孫相手に何威張ってるんだか。
本当にあなたの言われる通りです。私も薩長が嫌いです。斗南藩をつくり、それも失くし、屯田兵として北海道開墾して,私達には,想像すら出来ない位苦労して,今の東北地方や北海道の礎を築いて下さったのです。
飯盛山から鶴ヶ城の方角を見晴らすと遠くに城の全景が見える。
もし彼らが逃げた場所が山中ではなかったら、火事を発見することはなく、自刃はなかったかもしれない。
そう思うと堪らなく辛い気持ちになる。合掌。
遠く煙に巻かれる鶴ケ城そして火に包まれる城下。それを見た隊士達はどんな気持ちだったのか。足手纏いになる、敵に捕まる、藩主に申し訳が立たないいろんな思いがあったのでしょうね。
以前、訪ねた時 偶然住職の奥様にお会いして親切に本堂の中まで案内して頂いたんです。
嬉しい思い出がある妙国寺、アップ有難うございます。
「卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。ならぬことはならぬものです」
会津武士道を貫き、若い命を散らした白虎隊。左喜さんの事、ご遺体が掘り返された事
初めて知りました。容保公謹慎のお寺と白虎隊、尺八の音色がもの悲しく胸に迫ります。
ご視聴ありがとうございます😊
まつかたさんきっかけで初めて訪れました❗️
僕も撮影の許可を頂くのに奥様とお話しさせていただきました。とても親切な方で笑顔の素敵な奥様でしたね😄
白虎隊や会津藩士、戊辰戦争に関する場所は他にもたくさんあるのでまて撮影してきます👍
勝てば官軍負ければ賊軍、薩摩長州の戦が人を人と思わずのところが会ったのと思われます。今でも会津の人間から思えば悔しさと悲しさを覚えます。でもそれから今がある。
当時があって今があるんですよね。
私の母方の先祖が会津藩士でした。
会津藩士夫妻は、
幼い我が娘を海側の庄屋に預け、
「必ず必ず、戻って来る」と言い
懐剣と金子を渡し、
鶴ケ城に帰り、
2度と娘に今生では、
再開が叶いませんでした😢
長じて、
この庄屋の跡取り息子と結婚しました。
私は、東京にいた高校生の頃、
学校で、この白虎隊の墓に伺いました。(野口英世の生家にも)
この時、
大東亜戦争後に、
進駐軍が東北の福島会津の奥までやって来て、白虎隊慰霊碑石板を削った。
神風特攻隊や日本兵士の根底には、
武士道精神があり、
徳川幕府に対しての忠誠心イコール武士道であるとして、米軍は分析し、忌み嫌ったと、バスガイドさんが悲しげに語っていました!!
印象的なお話しと、切ないお声が数十年経た今も、昨日の事の様に思い出され、私の魂の聖域に内在します。
例え、慰霊碑は、蛮行により文字は、削られても、白虎隊、会津藩士やそのご家族、仕えていた方々、松平容保さまたちのお気持ちは、後世の私達は、少しですが分かります。
容保様は、徳川家の縁故であり、渋々、徳川を指示しました。
御心は、天皇陛下を深く尊く慕い、敬っていました。
終生、帝(天皇様)から使わされたお手紙を大事にされ、
竹筒に入れ、身に付けていました。
最後は、日光東照宮宮司となられ、貴族院議員の誘いや高位地位を断っていました。
御霊安かれと心から祈ります。
合掌
自分も福島の血が流れているので感銘を受けた動画でした。
私だった福島県人ですので,本当に心が打たれます。中々できる事では、ありませんよ。人として,熱い心の持ち主ですね。改めて、お礼を、言いたいです。心から合掌します。
そういえば自刃後の遺体がどうなったのかは考えもしませんでした。
吉田夫妻、村人によって埋葬をしたんですね。
でも埋葬したのにまだ掘り起こすって残酷過ぎます。人間がやること!😢
若き少年達を思うと胸が熱くなります。
まだ子供でしょう!
また機会があったら飯盛山に行って手を合わせたいと思ってます🙏
あきくん、お疲れ様でした🙇♀️
白虎隊自刃の話にはたくさんの説がありますが、飯盛山で自刃したのは事実です。
未来ある子供達が自らその道を閉ざしてしまうほどの残酷な戦争は耐えられませんね💦
私は、横浜出身ではありますが、私の両親は会津若松出身で、父方のご先祖様は、宮大工をやっていた方であり、飯盛山にあるさざえ堂を立てた棟梁の方だとおじいちゃんから聞いて育ちました。私は、さざえ堂に遊びに訪れたり、鶴ヶ城に行く度に会津戊辰戦争の白虎隊の悲劇を話を思い出しいろいろ想像して考えます。 白虎隊の悲劇があったからこそ今私が生きている。それを考えると会津に誇りを持ち、1人1人が、先に亡くなった方の命を無駄にしない為に、今悔いなく恥ずかしくない生き方をしていきたい。
さざえ堂建設の棟梁だったなんて凄いですね❗️
先の戊辰会津戦争で新政府軍に敗れ大変な苦労をしてそれぞれに国の為に生きた人々。会津藩であったりそれぞれの藩であったり先人の生き方や考え方は本当に勉強になると思います。自分も会津に生まれたことを誇りに思います頑張りたいと思います😊
妙国寺は、家からさほど離れて
いない所。徳川の葵の紋とは
違う、会津葵の紋の墓もあります❗
この時の緋毛せんの一部が、
白龍山泰雲寺に寄贈され
住職に、父の一周忌に拝見
させて頂きました‼️
何故駄可、解りませんが?此の投稿等で会津や、東北丿、悲劇を、知ると毎回涙が、出ます知り合いや、繋がりが、或るの、理由デワ、有りませんが!
いつもありがとうございます。只見線の大塩(金山町)で仕事をしたことがありますが、会津にはぜひ行ってみたいと思っています。
こちらこそご視聴ありがとうございます😊
ぜひぜひ会津へ来てください❗️
会津藩、白虎隊大好きです…!
会津行きたい……😭😭😭😭😭
ぜひぜひ会津へお越し下さい😊
@@aizuchannel
はい!行く時が楽しみです!!!!!
遺体を掘り起こす等と言う非情な行為に出た政府軍は許せませんよね.
京都守護職の任を忠実にはたし、孝明天皇の信頼も厚かった会津。そんなこともあり、勝って官軍となった賊軍からの熾烈なバッシングの的となってしまいました。本当に、必要ない戦争でした。
孝明天皇に忠義を尽くした松平容保公そして会津藩、どこでこうなってしまったのか❓
負けた側は本当に悲惨です。
悲しいお話がたくさんありますね。
こんにちは😃
白虎隊士中二番隊の飯盛山での自刃についてはかなりの説があり本当の所はよく分かりませんね。実際にその場に行って少しでも白虎隊士の辿った道をお届け出来ればと思います。
会津に行ったのは20年前になります。観光地は一通りめぐりました。良い思い出です。
またいつか家族を連れていきたいと思います。
ご視聴ありがとうございます😊
コロナが落ち着いたらまた観光に来ていただきたいと思います⭐️
日本人同士が戦う。。。アメリカでわ南北戦争。。政治家の為一般市民が巻き添い。。悲しい事ですね!今も昔しも変わりはありませんね?
歴史的な解釈はより詳しく勉強されてる他の方々に迷惑をかけてしまうので省かせ頂きますが、
よくぞアップして頂いた事に感謝をします。
会津生まれとして誇りに思います。
勉強不足で至らないことばかりですが💦
@@aizuchannel そんな事はございません。
本当の歴史の真実はおそらく誰にもわからないと思います。 ただ 会津の人間として会津の事で不愉快な事言われたら理不尽であろーがなかろーが
許す事ができません 笑
子供の頃に会津一回行ったけど衝撃的だった、そのうちまた行きたいな
また会津へいらしてください😊
1週間前に会津に行き、白虎隊の墓と自刃の地に詣でてきました。
隣の新潟県も、各地で北越戦争が行われており、東軍(旧幕府軍)の悲話がひそかに語り継がれています。
新潟県小千谷市の朝日山では、東軍が防塁を築き、西軍(新政府軍)との間で激しい攻防戦が行われました。
双方多くの戦死者を出す闘いとなりましたが、敗れた東軍はさらに長岡→見附→三条→会津へと後退していきます。
勝った西軍兵士の遺体は同じ小千谷市の船岡山に手厚く葬られましたが、敗れた東軍兵士の遺体は供養をすることを厳しく禁じられ、野ざらしにされたそうです。
これを哀れに思った地元のお寺の住職さんが、東軍兵士の遺骨を集めて朝日山の麓に葬りましたが、それは北越戦争(1868年)から85年後の1953年=昭和28年のことでした。
昭和28年・・・・太平洋戦争が終わってから8年も経ってからのことです。朝日山で戦死した東軍兵士の遺体は、明治→大正→昭和の太平洋戦争と続いた激動の時代を、朝日山にうち捨てられて、雨風に加え越後の深い雪に晒されていたのです。
なんと悲惨な話かと思います。
朝日山のそこかしこに西軍兵士の供養塔があり、そこで斃れた兵士の名が記された札が立てられています。
一方の東軍兵士の墓は、朝日山のふもとの静かな木立の中に在ります。
新潟を訪れた際は、ぜひお越しいただき、香華を手向けてください。
会津へいらしていたんですね😊
新潟には伴百悦さんのお墓へ行った事はあるのですが戊辰戦争関係の場所へはまだ行った事がありません。詳しく教えて頂き感謝です。ぜひ行ってみたいと思いました。
故旦那様の、祖先が、白虎隊でした。すごいですね。おどろきです。ありがとうね。
藩士の遺体が長期間野ざらしにされていたことは歴史書で読んでいたいましたが、これほど歴史的事実の説得性のある解説は見事です。それにしても、遺体に対する扱いの残酷さは何なのでしょうか。官軍の遺体もあったでしょうから、死者に対しては博愛の考えで敵味方供養塔みたいなものはなかったのでしょうか。
会津藩士の遺体の野ざらしに関しては諸説ありますがいずれにしてもしばらくそのままになっていた遺体はあったと思います。近隣の住人がひっそりと埋葬した遺体は(会津軍、新政府軍共に)相当数あり小さな石だけの供養塔が置かれたお墓もあります。
飯森山の白虎隊の戦士のお墓には、小学校の修学旅行で訪れて、あまりに悲しい結末に胸を痛めて、その後も再びお参りに訪れました。私の実家のすぐ裏に長岡藩の河井継之助と官軍の岩村精一郎の会談の場であった慈眼寺があります。河井継之助が地元を戦争にしないために、精一杯嘆願書を書いて上奏して欲しいと訴えたにもかかわらず、あまりに高圧的かつ考えもなく破談にされて、悲惨な戦争になりました。地元長岡の人達は河井継之助を恨んだ人も多かったそうですが、あの時きちんと向き合って話し合いができたら…。同じ日本人同士の争いは辛すぎますね。日本人は亡くなった人にまで仕打ちをするような民族とは…😢これもショックでしたが、そのようにさせるのが戦争なんですね。改めて戦争を憎みます。私達は先人からの歴史の教訓を知る必要がありますね。今また日本の危機ですので。改めて先人に手を合わせたいと思います。
避けて通れない戦いだったとしても酷いと思う所はありますね。
おっしゃる通りその事から学びより良い世界を作っていきたいですね。
ご視聴ありがとうございました😊
飯沼貞吉はいい人やった
と爺さんいってました
うちの家計は松平容保に仕える家で
じいちゃんは貞吉氏と親戚でいい人やったと言ってました
西郷頼母とも親戚な家計です私の家は
ご視聴ありがとうございます😊
そうなんですね❗️すごい家系ですね。
飯沼貞吉さんの人となりをお爺さまから伝えられるなんて羨ましいです。
長州の資金は何処から得たのか?兵隊は何処から集めたのか?日本での戦の文化が違う感じがします。
薩摩藩に武器を譲ってもらいました。兵士は薩摩や長州以外の藩からも最初から討幕派で戦っていたわけで、
別に薩摩と長州藩だけではないですよ。中心に薩摩や長州がいたというだけで、討幕派に賛同する人間は多かったわけです。
今、真実が、明らかになってきてますね。龍馬伝なんか、ちやほやされてますが、こころのなかは、やみですからね。😢
会津の者ではないが長州の蛮行は永遠に許さん。
長州の蛮行といっていますが貴方は歴史を知らないのでは?
旧幕府軍の遺体を埋葬した者は罪として、野晒しにする様に命令を出していたのか西郷隆盛ですよ。なので、どちらかといえば薩摩なのではないですかね
この頃の長州藩の主力は長岡藩を相手にしてなかったっけ?
会津藩を相手にしてた主力は薩摩藩・土佐藩だったと記憶。
@@lon4557 長州は蛮行をやっていないとでも?歴史をしらないのはあなたでは?
@@user-vk8uu9nv7n18 当時の時代なんて蛮行はどこもあったのでは?義を主張する会津藩ですら数々の蛮行があったのですから。幕末の戊辰戦争についてはそれなりに知識はあると思っています。
墓石を見ると当時の戦況を想像しています、胸の痛む想いがしますね。
墓石を見ると本当にここで戦いがあったんだと実感しますよね。
@@aizuchannel 天守閣から見た飯盛山は近くに感じましたね。
機会があれば是非訪れたい所です。
ぜひまた会津へいらして下さい😊
@@aizuchannel 有難うございます、是非飯盛山の墓地に立つてみたいです。
素晴らしい動画ありがとうございます
こちらこそご視聴ありがとうございました😊
会津好きですが暫く行けていません。(20年以上)
又行きたくなりました。
無論、北越戦争のことは存じています。
会津の方たちは全国に散ったようですね。
僕は、子供のころから今に至るまで会津近辺に行っている者です。まあ、子供時代は、猪苗代スキー場に行くということが、目的でしたが、最近では、会津という雄藩の幕末騒
乱においての状況を只々「悲劇の」○○のような視点から視るのではなく、そこで生きた人々が如何に生きようとしていたのかということが知りたくて、京都壬生の新撰組頓所に行ったりしたものでした。
で、会津若松に行く度に不思議に思うことがあり、お尋ねしますが、藩校であった「日新館」は本来、鶴ヶ城の南側に隣接されていたものですが、現在、河東という驚くべき場所に、しかも、民間会社により運営されているというある意味で現代への歴史を語り継ぐということを行政は観光の中心にしているにも拘らず、何故にこのような事態となってしまっているのか、ご存じでしたら教えていただきたいと思います。
歴史に『悲劇』は有りません。
『悲劇』は演劇や小説です。
確かに若松市内から離れた場所にあるのは僕も不思議に思っていました。
行政や利権が関係しているのかな?とも思いますが僕には良く分かりません。
答えを出せなくてすみません🙇♂️
登録致します。義息子が白虎隊に引かれ、刀鍛冶、火縄銃を初め全国津々浦々駆け回っております。
ご登録ありがとうございます😊
義息子さん白虎隊に興味を持たれたんですね❗️
会津へは来られましたかね❓
他にも白虎隊や戊辰戦争に関する動画を投稿しているのでよかったら見てみてください😊
ruclips.net/p/PLPo14xuMXjegVbnIgqNffA_mborw6kBTM
@@aizuchannelこちら 静岡です。その類いの保存会をやってますね。詳しくはわかりませんが良くラジオ、TV、雑誌などにはでてます。
このときは 【 賊軍 】 にされた会津藩士はその恨みを忘れず、後年の西南戦争では、今度は 【 官軍 】 の「 抜刀隊 」 となり積年の恨みを晴らす・・・。
相当数会津出身者が西南戦争に参加したようですね。
賊軍というのは否定できません。会津藩は 蝦夷地(現在の北海道)の一部(一部といっても面積的にかなり大きいですけどね)を朝廷へ無断でプロイセンに売却することを計画。輪王寺宮を拉致し三種の神器を保持せぬまま東武皇帝として即位することを強要。
12年前に飯森山と鶴ヶ城行きましたが感無量でした。
実際に戊辰の現場に行くと考えさせられますよね。
なんて、酷い事をする。まだ、若い少年達を、亡くなった遺体を、掘り起こしてまで、野ざらしにするとは、天罰が末代まで下る。神が許さない。亡くなった者は、丁重に、埋葬するのが、人である。戦いの中にも、礼儀である。お互い様なのだから。年端もいかぬ、子供に無惨な事をするなど、持っての他だ。
その通りですね。でも当時と今では死に対する考え方も違ってたでしょう。また新政府軍側には多くの藩がいましたから。東北の藩についても、最初から新政府軍についた東北の藩もいましたし、途中から寝返った藩もいたので会津戦争の時では大半の藩が新政府軍側について戦っています。ですので当たり前ですが、それだけ多くの人間がいれば、そういう悪さをする人間もいると思います。
仮埋葬の地から掘り返され、野ざらしに悲憤!薩長に怒り。飯盛山は何度か訪れ、その度泣け。あの慶喜のやつも来て、隊士の墓を撮った写真見たことあるけど、厚顔無恥に呆れる。
時代とはいえなんとも言えない悲しい話ですね💦
@@とし坊-u4l
なんで?
もう全滅だが一人、飯沼某という若者は通りすがりの農民に助け出され生き残った。たった一人、その時に身に着けていた血の付いた仙台平の袴は白黒tvとはいえ鮮明に記憶しています。広げたら、まだ子供じゃないですか15歳だから今でいえば十二歳・・・・
親も自刃した誰も死んだと思たんだろうね。
上司は反対し若者は、覚悟の特攻ですから絶縁の文をかいて出陣したと思う。泣く( ノД`)シクシク…
もし飯沼さんが生きてなかったら。。。多くの無名の無数の少年隊がいたというから全滅したぬ体もいたろうに
ご視聴ありがとうございました😊
飯森山に行きましたが、まだまだ行ってみたい場所が増えてしまいました。。
それにしても、なぜ遺体を野ざらしに、、これが今も続く話の根底にあるのかもしれません。
妙国寺は飯盛山のすぐ近くです😊
ぜひ行ってみてください❗️
www.aizukanko.com/spot/39
会津士魂と言う小説で会津の幕末を知りました。作者の早乙女貢先生は亡くなられていますが、元藩士の子孫とか。
親が会津藩士で早乙女貢さんは中国生まれだそうです☝️
NHK大河ドラマ「八重の桜」にて板垣退助(キャストは加藤雅也)が"会津戦争の時に会津藩士はよく戦ったが領民は全く協力も味方もしなかった。もしも領民が会津藩に協力していたならばもっと激戦になったであろう。"*って言うシーンがあります。
白虎隊に象徴されるようにお涙ちょうだいの悲劇だけで済まされるほど簡単な話ではなかったようです。
確かに農民や一般の方と会津藩政側の摩擦はあったそうです。見方を変えるとまた違った話がたくさんありますね。
まあ仕方がないのかもしれません。会津藩は領民から財産を没収していますからね。実際に会津のほうで商家をやってた方も
財産を没収されて会津藩に対して良いイメージはないと言っていました。
地元ですが勇ましい会津の人々は今も受け継がれてます(^^)
もう少し時が穏やかだったらと思います。
ご視聴ありがとうございました😊
本当にもう少し穏やかだったらと思います。
中村半次郎はまだ会津藩士への配慮を忘れず容保公に感謝されたが、白虎隊士の遺体をわざわざ掘り返して
野に撒くとはゾッとする。未だに会津が恨むのが分かります。
ご視聴ありがとうございました😊
遺体を掘り返したなんていうのはそもそも根拠はなんでしょう?会津視点の歴史本ってデタラメ多いですよね。
例えば埋葬が半年禁止されたなんて言われていたけど、後に会津若松で資料整理してた方が会津戦争後の一週間後に
埋葬された資料を発見しています。
子供が、新撰組みたいな格好をした人が
よくいる。と、言っていました。
今も、会津を守っているのでしょうね。
子供さんには見えたって事なんですね‼️
今も会津を守っていてくれていたら嬉しいですね😊
@@aizuchannel さん
私はたまにですが
子供はよく見るので
飯森山を夜に散歩していたら
家まで隠れながら付いて来てたみたいです😄
あと、白虎隊のお墓?児相の近くの寺には
狐と龍が混ざったものが
寺から行ったり来たりしているそうですよ🐲🦊
ナイス👍
ありがとうございます😊
疑問・どおして、飯沼貞吉ちなみに(貞雄)生きて残っても白虎隊志ですよね。どんとして画像がないのですか。
ご視聴ありがとうございました。
飯沼貞吉さんの写真は現在も多数残ってますが動画では入れませんでした。使えば良かったですね。すみません。
こちらのサイトに飯沼貞吉さんの画像が載ってますja.m.wikipedia.org/wiki/飯沼貞吉
時代とはいえ悲しい涙が溢れました。
悲しい歴史ですね。
去年の9月にここを訪れました。
いかに賊軍とはいえ。
故郷を守るために懸命に戦った少年たちの亡骸を野晒しにするとは。
砂を噛む思いでありました。
当時の軍監中村半次郎、後の桐野利秋も情のある人間です。
命じる方も苦しかったのではないかと思う時。
目頭が熱くなりました。
会津の歴史は侍の鑑。
深く潔い士魂は不滅ですね🥺
考えれば考えれるほど理不尽極まりないのが戊辰戦争だと思っています。偽の錦の御旗さえ掲げられなければ、福島の歴史、東北の歴史は変わっていたかもしれない、若い命を散らすこともなかったかもしれないと思うと、腹立たしく悔しい歴史だな…と。合掌。
ご視聴ありがとうございました😊
とても良い歴史探訪ですが 6:19 「軍艦」?など時折 誤字があります 残念です
「軍監」ですね 頑張ってください
誤字読み違いが多くあり本当にすみません🙇♂️
気をつけて動画を作りたいと思います。ご指摘ありがとうございます。
会津が好きで良く行きます。
今までは、上っ面だけの会津を見ていました。知り合いに斗南藩迄行かれた方の子孫の方が居られます。ご先祖が書き残された日記が有るのだそうですが、内容がとても公表出来ないものだそうで、概要だけを聞いた事が有ります。それ以来AIZUチャンネルが唯一の会津情報源と成りました。こらからも楽しみに待ってます。
栄養失調で死んだそうですね。
海岸部に住んだ人たちは、打ち上げられた海藻を拾って鍋に入れて、雑炊にして食べて命を繋いだ。
郡長正
父の萱野長修が会津戦争の全責任を負って自刃した為に家名断絶となり、長男は萱野家を家督相続するが次男以下は郡へ改姓した。三男の寛四郎及び会津藩士の柴太一郎の証言によれば郡は先祖の姓であり、会津萱野家初代の長則の母親が郡家出身。母方の姓との説は「初代長則の」が欠落して伝承されたもので、会津藩士に郡家は存在せず、長正の母親は一ノ瀬家出身。
文武両道に秀で、他の会津藩(当時は斗南藩)の子弟7名と明治3年(1870年)に豊津藩校育徳館に留学した。翌年の明治4年(1871年)5月1日に自刃したが原因は不明であり、食糧事情を母親に報ぜんとした手紙或いは母親からの返事が拾得されたとの説があるが、後世の挟間祐行の創作である。
墓所は甲塚墓地(福岡県みやこ町豊津)ならびに父の眠る会津若松市の天寧寺。命日は豊津の墓には五月朔日と刻まれており、それが遺族に伝えられた段階で5月18日になっている。
残る写真は明治3年(1871年)に横浜のフェリーチェ・ベアトの写真館にて撮影したコロジオン湿板写真であり、硝子原版は現存。
我に俺が尋ねたところ、
郡長正の自刃の動機は、萱野長修を死に追いやった、
梶原平馬、山川浩、佐川官兵衛に対する無言の抗議だったそうです。
こういう所業を聞くと今日のこの国の有り様に納得する
合掌
會津白虎隊の他にも、二本松少年隊の事も思い出してほしい………白虎隊より知名度派低いかも知れませんが………
二本松少年隊の話も切ないですよね。いつか取材したいです。
義忠烈士。私達会津人には口惜しい歴史認識は今以て忘れてはない。什の掟
ご視聴ありがとうございました😊
とりあえず、ドラマ白虎隊を観たら良い。
薩長の指示で埋葬が禁じられていたかは分からないけど、遺体が放置されていたのは事実らしいね。
敵兵の肝を食らった記録もしっかりあります。これは薩長も会津も同じですが。
そのような記録もある様ですね。
戦争とはいつの時代も残酷です。
遺体の埋葬は明治2年からだと言われていましたが、埋葬された記録を会津若松市で資料整理をしていた方が
見つけて、その記録によると明治新政府から命令されて埋葬されたのは会津藩降伏後の10日後ということです。
ていうかこの情報何年も前の情報なんですけどね。
近いうちに福島県民のパートナーのところに行くので、鶴ヶ城、飯盛山など小学修学旅行ぶりに行ってみたいと思います!階段がキツかった記憶もあるのですが(−_−;)
ご視聴ありがとうございます😊
ぜひぜひいらしてください‼️
飯盛山の階段は結構キツいです💦
ゆっくり登れば大丈夫かと思います。
隣に動く歩道もあるのでそちらもご利用ください☝️
戦で流れた血 想像が駆け巡る
ご視聴ありがとうございました😊
一度埋葬したにも関わらず墓を掘り起こすなど日本人のメンタルとして
考えにくいですが、戦争というものはそのようなものかと思うよりほかはありませんね。
飯盛山兄は何度も訪れておりますが、この動画にも少し映っていましたが
白虎隊が自刃した地に仙台の某私立高校創設者の胸像がありますよね。
数十年前ですがこの方は会津藩に関係がある人なのですか?
ここの博物館あてに質問しました。
すると会津出身の方ではあるが特に会津藩には関係がないとの事でした。
飯盛山は観光地でもあるが、一般の墓地であって誰でも檀家になれるとの事で
要するに金で…これ以上言いませんが
何もあのような聖地に,,,,私仙台人として悲しい思いをしました。
僕もはじめに見た時は『んっ?』と思いましたが、誰でも檀家になれると言うことは思いがあってここにお墓を建てられたのだと思います。
戦争とは人の尊厳まで奪うものなのかと今でも放送されるニュースを見るたびに悲しくなります💦
@@aizuchannel
ただの売名行為でしょ
もしも、私の、想い、考え爾、に御耳を、傾けて、降される、御、方が、要らしゃる、丿、ならば此の弔わて、居る周りに桜の木と、桃の木と、梅木を、植えて欲しく想います!
明治 大正 昭和 平成 令和すべての時代に総理大臣を輩出したのは山口県だけ
素晴らしいことだと思います😊
維新からまだ約120年
まだまだ許されませんよ
ご視聴ありがとうございました😊
120年前だとギリ20世紀じゃん
山川健次郎は東大総長
飯沼定吉は技師の親玉に過ぎない。
飯沼定吉に教育する程の価値は無かった。
飯沼定吉は飯盛山の生き残りとして、大正時代に著名人と成って居ました。
其れに目を付けた長州カッペの婆が創作した話
頼三は、長門国美祢厚保(あつ)の屋敷……
ここに戻ってきたとき、彼の乗る馬の轡(くつわ)を少年にとらせていました。頼三は少年のことを、「さださぁ(さださん)」と呼んでいたとか。
その少年が飯沼貞吉だったと言われています。その時の年齢は14,5歳でしょうか……
長州と会津は仇敵関係。敵の少年を連れ帰ったということを知られると何かと不都合。そのため、飯沼少年のことは秘匿されています。頼三は「さだ少年」のことは何も書き残しておらず、楢崎家に奉公していた高見フサの口伝で、白虎隊にいた貞吉少年がこの地で暫く養育されていたことが伝わっているのです。
頼三帰郷の祝いの席での話。
酒に酔った村人から云われた「生き残れてよかった」という言葉に傷つき自刃を図ろうとした貞吉に対し、頼三は
『生き残って社会のために尽くせ』
と諭したと言われています。
後年、飯沼貞吉は下関で電信技士として働き、工部省電信建築技師の重鎮にまで登り詰めます。そして、ソウループサン間の通信架設責任者にまでなりました。
まさに日本の電信電話の発展に寄与し、正五位勲四等を受章しています。
楢崎頼三が飯沼貞吉を会津から長州に連れてきたのは、会津にいれば「死にきれなかった武士」として負い目を感じて生きざるを得なかった彼を救うためだったと思います。
会津から遥か離れた長州で彼は生きることの大切さを教えられ勉学に邁進し、近代日本の電信に尽くす76年の人生を全うしたのでした。
一方彼に生を与えてくれた頼三は、兵部省の命で留学中に31歳の若さでパリで客死しています。結核でした。そのため彼の墓はパリのモンマルトルにあるそうです。貞吉を生かした頼三の方が短命だったんですね……
頼三が貞吉におこなったことは、まさしく、『恩愛』
山口県の美祢の山中に、幕末から近代日本にかけての知られざる秘話がありました。
さて、本編とは外れますが、貞吉を世話し秘密を抱えていた高見フサ。彼女の息子、高見三郎は、この地で炭焼きをしながら勉学に励みました。小学校の代用教員から猛勉強し内務省に入省。さらに衆議院議員にまでなり、最終的には文部大臣にまでなっています。
若い少年達は、自分の、命、よりも、時の情勢が命だった!のか?私が、母だったら?時の母と 同じかも知れない!皆。目的が一緒だから。名誉とは?何か!少年達へ
令和の時代に、なっても 白虎隊の 凛 とした姿立派です。空を仰ぎ、涙。
いろいろな事を考えさせられますね。
山口県は、明治維新と戦後復興の時代を中心に九人もの首相を輩出してます。日本は長州人が主役である時代に上り坂になり、そうでない時代は凋落しています。 「近代日本」は世界史上で燦然と輝く存在として記憶されるだろうと思います。
命は自身、最高の宝。
ご視聴ありがとうございました😊
長州人も復讐する相手を間違えておる。
親分の二人は切腹しなかった?1か月の謹慎で済んだ?
この後東京で謹慎しています。
その後は歴史の通りです。
まるで隣国のごとき埋葬された墓を暴くなど薩長武士の非道
西南戦争の「会津抜刀隊」の活躍の要因かな。
「隣国の如き」ってなんですか?外国を罵れば日本の恥ずべき行為が軽減されでも
するんですか?恥を知りなさい。
会津藩が蛮行をやった「から」といって白虎隊を叩く人がいる。
白虎隊がどんな蛮行をしたのか言ってもらいたい。
会津藩は実際に蛮行はしていますよ。脱藩した水戸藩士たちを使って他の藩に対して略奪行為や放火を
行っています。また農民から凶作用の米をとっています。なぜかそういう会津藩にとって都合の悪い
事はあまり知られてないです。
薩摩、長州、土佐を思い出します‼️
ご視聴ありがとうございました😊
妙国寺は実家の真ん前です(笑)
そんなんですね‼️
お寺の方がとても親切な方でした😊
薩摩藩士の中村半次郎は容保候の降伏に際して号泣し、その後も敗兵の会津藩士に同情して寄り添い、容保候に深く感謝されて宝刀を賜わったと伝わつておりましたね。
薩摩の藩風や伝え聴く中村半次郎の性格から白虎隊士の辱めは考え難いですね🤣
中村半次郎さんの人柄が伝わるお話はたくさんありますね。
心優しいお人だったのかと想像します。
@@aizuchannel
中村半次郎は薩摩藩屈指の示現流の達人で、騒乱の都で西郷どんの身辺警護で近付く刺客をしばしばしば切り捨てたとされて人斬り半次郎の汚名を蒙っておりましたね。人柄は紳士とされて明治陸軍の少将でしたが、西南戦争の城山玉砕戦で西郷どんと運命を共にしました!
信州上田藩の赤松小三郎は幕府の密偵と見做されて藩命で半次郎に暗殺ですね。 長岡藩の山本帯刀も半次郎率いた薩摩兵に斬首されておりました🤣 会津の鬼官兵衛や庄内の鬼玄蕃に相当? 薩摩の軍監であれば、白虎隊て名前がでて可怪しくないですね。屍の扱いは、微妙な問題になりやすいです🙇
戦国時代って凄いですね、若きして鶴ヶ城を診て終わりだと思い自死するって醜いですね。やっぱり平和が一番です。
ご視聴ありがとうございました😊
生きて虜囚の辱しめを受けずか...物事に真っ直ぐなのはいいけど限度を知らないとね。
なんともその時代の考え方や生き残っても酷い事をされるからなどがあったんでしょうね。
@@aizuchannel それが、戦陣訓として太平洋戦争まで持ち越されたんですから。何かの読み物か何かでこういった話が拡散されたのが影響してたかもと思ったところです。あと、こういった事例は、せめて士官と兵隊では分けて欲しかったよなと思います。権限は無いのに責任は一緒かよという気持ちです。
失礼ですが、白虎隊の悲劇は壮麗で悲しい事実ではあるが、コメントや動画には過度の思い込みや事実に反することがさも事実のように書かれている点である。多いのが長州が蛮行をやったという思い込み。長州兵隊は戦後の救援活動には入ったが戦闘には間に合っていません。従軍医と救援部隊が落城時に間に合ったくらいである。むしろ怪我人や病人や白虎隊の生き残りを世話したくらいです。長州兵に助けられた人は昭和に入っても感謝する人は沢山いました。土佐や紀州兵や関東の官軍は幕軍と同じく組織や軍律が近代軍隊でないのである程度の戦地での略奪や戦利品の流用などの蛮行もあったようですが、会津も芸州口の戦いで退却時同じように食料や物品の掠奪をしているので戦時下の蛮行を批判できる立場ではないのでは?まさに隣国のように被害者ビジネスを今に続けるのはいかがとか?
明治新政府ができて、全て、終わったのに、薩長軍は福島県のほとんどの城を襲いました。勿論、そんなことはしなくて、良かったのに。ーーー私の薩長に対する怒り、恨みは全然消えません。ーーー現在の薩長にはどんな気持ちもありません。
松平容保は自刃していない。主君に申し訳ないと思うのならまずは主君が自刃するべき。若い身空で思い詰めることはない。この戦争の責任は君たちには無い。生きて注ぐ忠義もある。
私は、この話を知ってから、薩摩と長州が大嫌いになり、薩長アレルギー発症しましたわ・・・。
とはいえ、長州は現在、あの迷惑系RUclipsrやら給付金誤送金で、大騒ぎになってますよね・・・
ご視聴ありがとうございました😊
時代が変わろうどう山口県の奴は変わらない
@@電気工事士の頂点 様
山口県出身の、金子みすゞさんは、優しい方なんですがね・・・
山口県って、良い人とクズ野郎が、 極端過ぎですよね・・・
薩長は反省してくれ
うーん、私からすると、会津藩にも問題はあると思いますけどね。他のいくつかの藩も旧幕府軍に協力したとして朝敵扱いになるも、すぐに恭順して許しをもらっていますが、会津藩だけはプライドからなのか、反抗ばかりしていました。新政府軍から寛大な処置をすると言われても返事を何日も無視して、徳川のなりいきを見届けるまでは謝罪しないと返信。その後に新政府軍の占領地に奇襲をかけてきています。
私の総曾祖父母がよく、萩や、長州薩摩の者とは、結婚するなと言っていました。まだ中学生だった私には、よく分かりませんでした。総曾祖父母が亡くなってからは、曾祖父母や、祖父母や、両親に同じ事を言われて育ちました。総曾祖父母の兄弟姉妹が戊辰戦争で亡くなっています。私の中にもまだまだその血が流れています。長州や薩摩を許せません。もう二百年経つたけど許せません。
白土さん多分それは逆恨みなんだと思いますよ。会津戦争が起こった決定的な原因は政府の参謀下を斬って、会津藩が政府軍が占領している白河領地を攻めた事です。また政府軍は会津藩を攻撃する前に会津藩に対して今からでも謝罪すれば寛大な処置にするという通達も出しています。それを何日も放置した上に謝罪を拒否する返事を会津藩はしています。
@@山本渉-d7t 逆恨みしていません。薩摩、長州が、幕府や、朝廷を蔑ろにしたからだと思います。会津は、忠義一途な藩ですよ。薩摩長州は、どうでしょう❔今でも、会津をはじめ福島では、先の大戦は、戊辰戦争です。昔程ではありませんが、薩摩長州を嫌っている方々が、結構いらしゃいます。白虎隊や勇士軍や娘子軍の事を思うと、心が辛く悲しくなります。
@@siratyan-j8d
薩摩藩や長州藩は朝廷を蔑ろにしてはいません。まあ朝廷は日本国では一番上の地位ではあるものの、大きな力をもっていたのは徳川家です。だから少し舐めていたところはあったかもしれない。ですが一番天皇に対して舐めた態度をとっていたのは徳川家です。天皇は徳川慶喜が勝手に外国と条約をいくつも結んでいるので激怒して天皇と徳川慶喜の間には信頼関係は揺らぎ亀裂が入っています。その後に天皇が徳川家を無視して水戸藩に勅命が下った事も知っていますよね。当時は暴動があちこちで起き始めていて、徳川家の言う事を聞かない藩も少なくはなかったので薩長がいなくても徳川家が滅ぶのは時間の問題でした。
会津藩は忠義一途とは言いますが、徳川家の処分について審議されている時に会津藩は徳川家よりも自分たちの立場の事についての申し出しかしていません。また会津藩は徳川家から開発と管理せよという名目で蝦夷地の一部を渡されたにも関わらずその土地を外国に売却しようとしていたやりとりが2010年以降にドイツの軍事図書館で見つかっています。新聞でも大きく掲載されましたよ。
白虎隊や勇士軍や娘子軍の事を思うと悲しいのはよくわかりますけど、戦争が起きる事になったのは会津藩が降伏や謝罪をしなかったからです。なので恨む相手を間違えていますよ。会津藩が降伏や謝罪をしてるのに、新政府運が無視して攻めてきたならそれは新政府軍が悪いとは思いますが。会津藩の白虎隊などしか見えていないのでしょうが、戦争で亡くなったのは会津藩の人間だけではないです。
中野竹子を顕彰する会津若松の人たち
會津最強の女 諏訪喜智子を何故、顕彰しないのでしょうか?
戊辰戦争百話・目次 - 会津の歴史 第六十四話:豪快諏訪喜智子の奮戦
◆第六十四話:豪快諏訪喜智子の奮戦◆
■喜智子は、文政二年(一八一九)二月二日、会津藩士伊藤氏の三女として生まれ
た。名を初め悦といい、体格ひとにすぐれ、性質剛健、文芸の諸芸に通じて男勝り
の評があった。結婚して二人の子をもうけたが、姑と折り合いが悪く離婚。再婚は
しない決意であったが藩内の諏訪大四郎に懇望されて、名を喜智(後に喜智子)と
改めて再婚した。再婚後は内に能く治めて紊(みだ)れることがなく、外に対して
は夫を助けて功多く、諏訪家の家運は次第に開け、大四郎は遂に禄千七百石の老職
にまで昇進した。また晩年もうけた一子栄は石川数馬(四百石)の養子となった。
■慶応四年(一八六八)八月二十三日、西軍若松城に迫るや、夫大四郎は先に登城
し、養子の伊助は陣将として日光口にあった。喜智は伊助の妻子と実子の栄を家の
従長に託し、各自に五百両を腰に結わえさせて山村に潜ませ、他に金子を埋めて
「お前たち婦女・幼童らは国に殉じなくともよい。他日この金をもって酒舗を営み
もって諏訪家の祀りごとを絶やすことのないようにせよ。私は夫の跡を追って入城
し、城を枕に死ぬるつもりである」と、薙刀を携え、供の者一人を従えて追手門よ
り入城した。
■その頃、追手口からの攻撃に攻めあぐねていた西軍は、やがて搦手(からめて)
に目をつけ、城南に迂回して天神橋畔から攻撃を加えてきた。この報に接した守備
兵は八、九十名の決死隊を募って南門への進撃命令を伝え、小室金五郎左衛門がこ
れを指揮して果敢に突撃し撃退せしめた。同じ頃、西出丸の讃岐門にも敵が押し寄
せ、今にも破られそうになったというので、松平容保は喜智に命じ戦況を見にやら
せた。喜智は婦人十人ばかりを引き連れ、薙刀を小脇にかかえて駈け付けてみると
味方は苦戦している。婦人達は左翼めがけて斬り込み、これを見事に撃退したとい
う。
■籠城中、喜智は山川大蔵の母唐衣(からころも)と共に城内の女子の総取締りに
任じ、死者の埋葬、傷者の介抱、食糧の炊出し、弾丸の製造などに従事した。しか
るに戦況が振るわず、遂に喜智は操銃法を知る婦人数名を集め、一夜潜行して城を
出、二ノ丁の敵兵を襲撃、敵兵の狼狽して逃走したのちの遺棄品を獲得して凱旋し
た。ところがこれが城内に知れ問題となった。というのは出撃の志は嘉すべきも、
もし、屍体を敵に見せるような事にでもなれば、城中に兵尽きて婦女子をもって代
わらしめたかと思われ、却って敵の侮を招くことになりかねないと言うのである。
かくて婦女子の出撃は以後固く禁じられた。
■開城後、喜智は大沢村に住したが、斗南藩に移封となるや、実子栄とともに会津
に残り藩主、ならびに諏訪家の墓所を守った。晩年は瓜生岩子の慈善事業に賛同し
瓜生会会津支部長として奔走した。後東京に移り明治四十年四月四日、八十九歳で
没した。青山墓地に墓がある。
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御子孫の方が事実だと仰ってました 会津は5〜6回行ってますが妙国寺だったんですか 知りませんでした 今度是非とも行きます
ぜひ会津へ‼️
ユダ金に踊らされて血みどろになった哀れな人達。
南北戦争と比べると、戊辰戦争の戦死者は全然、少ないですよ。